「時にかなって美しい」 創世記41:37〜46、ペトロU3:8〜9
奈落のそこに突き落とされていたような人が、王に次ぐ地位につき、周囲の国々や遠くにいた家族をも
救う人になりました。
このヨセフの物語は、単なる成功物語ではありません。神の壮大な救いの計画を味わった人の話でした。
そして、私たちが神の救いの計画の深さに気づくための出来事でした。
創世記37章から登場するヨセフの人生は、ある人たちからは信頼を受けますが、周囲のねたみや逆恨みによって
ずたずたにされていきます。兄たちに裏切られ、エジプトに売られます。策略にはめられ、牢屋に入れられます。
相談に乗ってあげた人にも忘れられます。人間不信になりそうな生涯です。
ねたみや裏切りといった悪意に振り回され、悩み、腹をたてることは、私たちも経験することです。
悪意に悪意で対抗して泥沼に進むべきでしょうか。それとも、あきらめ、嘆くしかないのでしょうか。
神はヨセフ物語を通して、悲劇の中にいる私たちにも神の恵みの御手が差し伸べられていることを語りかけます。
人が忘れたとしても、神は忘れておられないと語ってくださいます。
ヨセフは、神が共におられ、神が導いて
くださっていることを見ていました。そこに、ヨセフが悪意に対抗することや嘆きに走らず、なお誠実に生き続けられた
理由があります。
神を見ていたからこそ、これから神がなされることに期待をもって生きられました。
そして、神は確かに悲劇で終わらないことを、明らかにしてくださいました。
神は、私たちの思いを越えて、時を美しく支配しておられました。
私たちも奈落の底が終着点ではありません。永遠の救いが私たちの終着点です。
そこに招き入れることが神の救いの計画です。
神は、奈落の底の極地である死からも引き上げて、神の国の民としてくださいます。
そのためにも、御子イエスが十字架で死に、黄泉に降り、三日目に死人の中から甦られたのです。